関西東大会4月例会(芭蕉・俳諧文学講座)のご報告
s36法 沖野研一
堀 信夫先生には密かに二つの楽しみがありました。s33法 津村準二様とs34 岡部 高明様にお会いできるのを楽しみにしておられましたが残念ながらお二人とも当日のご出席かかなわずお出会いは将来の楽しみとして残されることになりました。なお津村様の奥様がご主人の代理出席をなさいました。この出会いを出来るだけ早く実現するためつぎのシリーズのご講義をできるだけ早期にお願いしたいと考えています。
(ベルクソン哲学に出会っていた小生にとってはまさに目から鱗のご講義でした。8月例会(8/7)の金森 修東京大学大学院教育学研究科教授の「ベルクソン哲学と、主体的自由の問題」でベルクソン哲学を判り易く解説してくださるのではと期待を膨らませています。)
「いま私がテレビ番組の演出家として「おくのほそ道」を映像化すると仮定する。私はこの作品を写すテレビカメラを宇宙の果てに設置するだろう。
李白「春夜宴桃李園序」 「夫天地万物之逆旅、光陰者百代之過客、而浮生若夢」という揚言、芭蕉の「月日は百代の過客にして、行かふ年も旅人なり」という時間論は、そのような位置に身を置いての発言である。
ところがその後、カメラの焦点は銀河系→太陽系→地球と絞られ、地上の世界へとぐんぐんと迫ってゆく。蟻のごとくうごめく人の姿も、やがて見えてくるだろう。「船の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老いをむかふるものは、日々旅にして旅をすみかとす」とはそのようなレベルのイメージである。そしてさらにカメラは地上に肉薄、ぱっと一人の人物の顔をアップでとらえる。「予はいづれの年よりか・・・・・」という筆者の登場がこれである。
このカメラワークの比喩で明らかなように、芭蕉がこの作品のために用意した「眼」の焦点深度は恐ろしく深いといわねばならない。
少しせっかち言えば、「おくのほそ道」約50の章段に、それぞれ宇宙までの奥行きを与えてみるがいい。人はそこに小賢しい人間の知恵のつけ入る隙のないことを悟るであろう。すべて自然も人生も歴史も、造化のダイナミックスに従って、自生自化するほかないのである。」
と蕪村の俳諧ものの草画と芭蕉の山水画巻との違いから先生は説き明かされる。
「おくのほそ道」の約50の章段に入っての具体的なご講義が待ち焦がれます。


