「ベルクソンと生命の形而上学」(金森修教授講演記録)

s48法 安原 徹

講師:東京大学教育学部 金森修教授

日時:平成22年8月7日 14時~16時

場所:大阪電気倶楽部

要旨:以下のとおり。なお、罫線内は先生が講義に際しパワーポイントで示されたもの。

 

ヒトと人

・ヒトは、自然科学的な対象としての人間

・〈文化〉的な存在として生きる人

・人は、ヒトであるにもかかわらず、ただそれだけではなく、ヒトから若干乖離したものとして生き、そのような自己理解をする。

・〈自然〉と〈文化〉との間の差異・緊張感

 

我々は生物学的存在であるとともに、単なる生物的存在から乖離したものとして存在する。生物学的・医学的に調べていっても我々が10万年くらい生きている「人間」としての存在を連続的に理解することはできない。

ヒト・・・・自然の一部

人・・・文化の中で生きている文化的な存在


「人」とは自然の地平と見分けがつかないのではなく、そこから離れている存在。その意味で自然から切り離されているから「不自然」」である。つまり自然から乖離した文化的存在として、芸術や科学を作りながら生きている。

 

ヒトと人

・誕生、死、女性の出産などの局面で、人は誰でもヒトとして生きることもある。

・にもかかわらず、普段の人はヒト的なあり方からは若干乖離した形式・様式の中で生きている。

 

出産のあり方は地域・文化・時代によって異なっている。また死についても、いつ死ぬか、どういう風に死ぬか等地域・時代によって多様な様式がある。

例えば、中世ヨーロッパの人々は、自分が死ぬことの予兆を見た(象徴的なものを見る)。自分はお迎えが近いと感じたという。そこで友人を呼んで挨拶をし、神父を呼んで罪を告白し、儀式をして安心して死んでいったという。また火葬はしない(これは生き返るから)。また事故死や突然死は、死に至る準備をしてから死ぬことができないので嫌われた。これが当時の死に対する文化であった。
 

死そのものはヒトにとって単なる事実である。しかしどういう死なら許され、どういう死なら許されないかは文化である。例えば行き倒れがよそ者が河原で死んだりすると埋葬しないで放っておく。すると亡くなった人がだんだん崩壊して白骨になる。観察事実としてはこの通りである。我々の先祖は犬に食われる死体を見ていたかもしれない。これが死者に対する文化的なあり方の違いである。

  

或る意味で、古典的な人間観

・ヒトの自己理解の精緻化に伴う、古典的人間観の表面上の衰退

・しかしそれは、本当の意味では衰退していないし、衰退しているという自己了解自身が、自分自身の重要性の過小評価に繋がる。

・人>ヒト 本来はそう その自覚が大切

 

昔の人間も我々も根源的には同じ。だから昔の偉大な人物の言葉は、根源的な条件にふれるものは今でも重要だ。現代のように人間が揺れているときには声を大にしていうべき。

 

小さい、しかし極めて重要な空隙

・愛≠生殖

・愛は人の行為で、生殖はそのヒト的な換言といってもいい。いずれにせよ、愛を生殖に還元することはできない。

 

小さい、しかし極めて重要な空隙

・前の事例とは異なる位相ながら

・勇気≠無謀さ、暴力

・慎み≠臆病、消極性

・両者は共に、人的な次元での価値的上下関係の構築、異質性の導入

・文化:価値 それと相即する反・価値

 

美しいということは逆に醜いものがあるということだ。我々は価値的な上下のもとで文化的な行動をしている。そしてそれが最高の価値になるものであるなら、それをするために経済活動を行う。経済活動を行うと世の中は活発で華やかなものになる。一方、私はマルキシズムは大嫌いだ。16世紀から19世紀にかけて世界中のインテリが考えたユートピアは大部分が社会主義・共産主義だ。それを実際に実験したのが20世紀のソビエトであり北朝鮮であった。正直に言ってこれはろくなものでない。何がいけないのか?まず、天才でないと計画経済などというものはできないということ。そしてそれを実際に取り決めるのは特権階級であること。国民にとってはいくら仕事をしようがしないでいようが一緒なのでがんばろうという気にならないこと。人間のポテンシャルが活かされないからおもしろくない。それ考えると経済もリベラルなほうがよい。

 今若者と話をするとカネを持っていない者が多い。個人の才覚、個人の経済活動が個人に戻るような社会がよいのではないか。もちろん極端なものは排除しなければならない。またカネを集めることだけが目的ではない。

  

生物学的な知見が進み動物としての起源がわかってきても、「結局人間ってこれだよね」などと考えないことが重要だ。人間は言い換えるとこういった動物だけれども、両者は一緒ではない。ダーウィンは、人間は調べれば調べるほど動物だと言った。しかし文化は動物からは出てこない。ここには宗教の持つ根源に触れるものがあるように思う。そういう意味で宗教は文化の背骨の一つだと思う。

 

デカルトは、人間の精神と体の距離を最大化した。つまり、動物には精神がないと考えた。これは文化史的には重要だ。つまり人間以外の動物はロボットのようなもので、人間だけが別物だ。このような考え方を思想として作った。ところが思想は机上のものに留まらない。人々はネコが単なるロボットに見えてくる。するとそのことが行動にも現れてくる。思想によって行動の体系が規範化される。ネコも機械、サルも機械、その挙句インディアンも黒人も機械だというような考え方につながってくる。

 

「役にたつ」かどうかがよく問われるようになった。しかし、この4、5年大学が独立行政法人化されたが何のよいこともない。大学は儲けなくてはいけないことになった。それを言い出すと「サンスクリット語を学んで何になるの?」ということになる。でもそうなると仏教の研究はどうするのか。一度研究の伝統を壊すと大変なことになる。これは中国の文化大革命の例を見ても明らかだ。

 

江戸川乱歩というと猟奇的だとかエログロだとかいったように考えられている。しかしこれも人間の文化のある局面なのである。合理性を求めて殺菌された中で育つと倒錯性を含んだ人間の文化というものがわからなくなる。このようなリスクも含め、乱歩のような文化も大切だ。文化が爛熟した生き人形というものが作られた。そういうものも人間のある部分を表していると理解しなくてはいけない。人間の文化はテクノクラートの計算でわかるものではない。彼らは「乱歩は子供に見せるべきでない」と言い出すかもしれない。でも美と醜いものは一緒だ。醜いもの恐ろしいものと一緒に触れるから美しいものがわかる。そういうことを大前提として次の世代に伝えていかなければならない。

 

ベルクソンと自然との距離

・ベルクソン哲学も、自然との距離設定、事実的連鎖の模写という学問規範とは微妙な距離設定を行なうというスタンスが底流に流れている。

 

ヒト的知識を読んで考えてもそれだけでは人間がこの世界に生きていることを説明できない。物理的時間と我々の内的な時間感覚とは異なっている。ベルクソンの「創造的進化」の第1章後半にはダーウィンとラマルクの進化論が取り上げられるが、両者は随分異なっている。

 

ある環境でいろいろな生物が生きていたときに急に平均気温が下がったとする。すると寒いと生きていけない個体は死んでしまい、寒くても生きていけるものの割合が高くなる。つまり生物フェイズがA→A’に変わったとき、たまたまの圧力によって生物がふるい分けられる。一方、ラマルクの考え方は全く異なる。どんどん寒くなると、生物ががんばる。あるものは暖かいほうへ逃げるし、あるものは毛を増やしたり甲羅を分厚くする。それがうまくいったものは生き残り、旨くいかないものは死んでしまう。ラマルクはもの自体に主体的ながんばりを認める。生物に自由と意欲を認める。このような考え方は現在では科学的・生物学的には認められていないが、ベルクソンの考え方はラマルクのほうに近い。

 

生物の神経系が「爆発」することによってどのように動いていくか予測できない。生物が存在するのは決定された空間のなかに自由と爆発物が存在しているのに等しい。社会的昆虫には本能で決められたことしかできない。それに対して人間は知性を持っていて複雑な神経系をもっていて、「爆発」するとどこへ行くかわからない。自由と同時に偶然性・予測不可能性が存在する。人間は自由なのかと問われると、根源的に自由だと考えられる。

 

人間の記憶はどこかに記憶されている。人間は何かを見ているようであって実は過去の風景画をおさらいしている。現在を見ているのだけれども、記憶によって現在をみるように過去を見ている。しかし未来は未来にひきずられているようで完全にはひきずられておらず、自由なのである。

 

20世紀の科学は集団活動によっていることが特徴だ。全体の知識が体系化されているわけではないが、参加する人間の人生のなかに非人間的な膨大な知識が生まれている。

 

こういうふうに見ればこうだよね。この条件節がなくなると政治的にどうなるのか。こういったことを考えつつ文化的な存在だと自覚して生きていくのがよい。

 

科学者によると、宇宙に向けていくらメッセージを送っても返事が返ってこないから、数万光年の範囲には高等生物はいないということだ。だから人間はすごく貴重な存在だ。宇宙も膨大なスペクトルを理解して欲しかったから人間を作ったのではないか。

 

(最近の若者についてどう思うかとの質問に対し)彼らは10代からコンピュータをさわっている。知的な能力については断絶があるが、ひょっとすると凄い人が出てくるかもしれない。
 

 


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