関西東大会 北陸行旅記

高田 忍(昭40文)

 
10月7日より4泊5日の「富山県西部、白川郷、能登、金沢の旅」に参加した。この地を旅するのは、ゼミの社会調査で富山のベアリング工場や高岡の鋳物工場を訪れて以来で実に49年ぶりである。また、関西東大会の旅行は、6月の北海道に続いて二回目である。参加者の柴崎育久、富子ご夫妻が旅先で俳句を詠まれた句を選んでいただき、この旅行記に入れていただいた。甲武信とは、育久氏の俳号である。
 
10月7日(月)
14名の参加者は、ほぼ定刻に高岡駅に集まった。バスの駐車場の傍らに前田利長という戦国武将の像がある。疑問が二つわいた。一つは利長と利家の関係。もう一つは、加賀藩の前田家と越前高岡との関係。ガイドの説明では、利長は利家とお松の方との間に生まれた嫡男で加賀藩二代目の藩主であること、前田家は加賀のみならず能登、越中を支配していたという。
バスは前田家の墓所の横で停車した。墓所の面積は3万坪とも5万坪ともいうが、その中はうかがい知ることができない。
最初に訪れたのは利長公の菩提寺国宝高岡山瑞龍寺である。重要文化財に指定されている総門は、東大赤門と同じ形だそうだ。上の写真が総門で、下はその後上京した際に撮った赤門である。類似していることがわかる。

 

 
その先に控える山門は国宝で屋根は二層になっている。上下の屋根の大きさを同じにして、上に積もった雪が下に落ちないような工夫がされている。これだけの大きな寺が、禅堂などもあるのに家族数人で維持しているとのことであった。
昼食後、奈良、鎌倉に次いで大きいという高岡大仏を見学した。大仏に口髭、顎髭があるのが印象的であった。
金谷町に向かう。高岡は鋳物の街でもある。郷里のお寺が戦時中軍に接収された鐘を、戦後再興するにあたり、高岡の鋳物会社に依頼したことを思い出した。電線は地中化され千本格子の家が軒を並べる。街並みはきれいに保存されている。
その後、大伴家持が越中国守となってこの地に赴任したことから設けられた万葉歴史館を見学した。
初日の宿は雨晴温泉の旅館である。小高い丘の上にあり富山湾を見渡すことができ、その先には立山連峰が見える。大浴場は湯の表面と富山湾の海面とが一体になり、まるで海の中の温泉につかっている気分になった。
 
雨晴温泉
 海越しに剣・立山天高し     甲武信
 行く秋や稜線雲をつなぎ合ひ   富 子
 
10月8日(火)
雨晴温泉から井波までの途中、気になったことがある。墓石の大きいことであった。人の背丈の一倍半から二倍はあるように見えた。昨日の利長の巨大な墓と通じるところがあるのだろうか。
井波は木彫りの里である。井波彫刻の歴史は、火災で焼失した瑞泉寺の再建の際、京都から彫刻師が派遣され地元の大工がその技を習得したことが始まりである。八日町通りという門前町を、ガイドの説明を聞きながら歩く。彫刻工房を覗くと、若い職人の姿も見られ、伝統工芸が継承されている。八日町通りにある家の表札、店の看板だけでなく、地域のコミュニティバスの停留所まで木彫りで作られていた。
瑞泉寺は、浄土真宗大谷派で第5世綽如上人の開創、後小松天皇の勅願所とされている。北陸に浄土真宗を広めた蓮如上人は綽如上人の2代後ということであった。
勅使門の彫刻「獅子の子落し」は、親の獅子が子を蹴落とす様子と、そこから這い上がろうとする子を見守る姿が彫られている。法堂の左には太子堂があった。本尊は後小松天皇が綽如上人に下賜された聖徳太子二歳の尊像である。太子堂は大雪に備えて、屋根がしなり耐えられるような設計がされている。この地方では、端午の節句に太子像を贈る風習があるという。
 
午後、閑乗寺公園から砺波平野に広がる散居村の全貌を見た。田は刈り取った稲から出た芽が伸びて、田植えの後のように一面は緑であるが、田植えの後の水をためた風景はもっと素晴らしいのではないかと想像した。散居村はかつて秀吉の太閤検地の役人の目を欺くために、家々を密集させるのではなく、離れて建てたことからその名前の由来があるそうだ。敷地の一番外側に生垣や塀があり、その後ろに背の高い杉の木等が植えられている。高い木に囲まれた内側に、母屋や納屋、白壁の土蔵が建てられている。暴れ川ともいわれる庄川が肥沃な砺波平野を生み出した。展望台から庄川が蛇行している姿がよくわかった。
平家の落ち武者が傷をいやしたことが始まりという大牧温泉はダム湖沿いにある。船でさかのぼると、川から水蒸気が立ち上っている。温泉から流れ出て温められた川の水と空気との温度差からできる現象かなと思った。翌日朝食の時、水墨画を趣味としている竹澤英代さんが、これは川霧だと説明してくれた。風のないときに起こるそうだ。
旅館に入ると廊下には、多くのスターの写真とサイン入りの色紙が飾られていた。テレビのサスペンスの舞台になったことを思い出した。露天風呂は本館の外、階段を5~60段上がったところにある。湯には木の葉が浮かんでいたりして正に秘境の温泉という感じであった。
夕食には旅館の主人の差し入れで、焼いた岩魚に酒を注いだ「骨酒」がふるまわれた。
 
大牧温泉
源泉はダム湖の底ぞ木の実降る     甲武信
 
10月9日(水)
台風24号が接近していたが、雲の合間に少しばかり青空が見え、川は小波が立っている。対岸の木の葉も揺れている。俳句を詠まれる柴崎富子さんから「葉裏を見せる」と表現すると教わった。風が強くなる前兆で秋や冬の初めに見えるという。朝食の間、落雷によるものか何度も停電が起きた。風が強くなり船の出発時間が早まると宿の人が各部屋に伝えに回った。
 
バスは156号線を庄川の右に行ったり左に行ったりしながら、飛騨高地に向けて走った。五箇山の菅沼集落が見えた。高岡のガイドによると、五箇山も加賀藩の領地で鉄砲の煙硝が作られていた。
飛騨の白川郷に着いた頃、あいにく雨がぱらついてきた。集落の全貌が見える高台へ行き、記念写真を撮ることになった。昼食は高台を降り集落の入り口にある「囲炉裏」という店だ。山菜料理が出され、久しぶりに野菜を多く食べることができた。その中に「みずな」という山菜が出されたが、京野菜の水菜とは異なる。飛騨牛の朴葉(ほおば)焼きは美味であった。
村の中を散策したが、ほとんどの合掌つくりの家が土産物屋になっているのには失望した。生活が懸かっているとはいえ、世界遺産なのだから、昔の姿を残してもいいのではないか。
 
白川郷
日は秋の杉の梢(うれ)研ぐ白川郷   富子

  白川郷を高台より見下ろす
 
白川郷を後にして、砺波平野の南西部にある城端(じょうはな)の曳山会館を訪ねた。毎年五月四、五日に祭礼が行われ曳山が町内を練り歩く。会館には傘鉾、曳山、庵屋台が展示されていた。庵屋台の一つに、欄間に近江八景や日本三景が彫られているという。よく見ると浮見堂に雁が飛んでいる光景を彫り込んだ近江八景の「堅田の落雁」だとわかった。また城端は絹の産地でもあった。
そのあと、福光にある棟方志功記念館を見学した。青森県出身の板画家 棟方志功が戦時中東京からこの町に疎開した。当時住んでいた家が保存されている。便所の壁から天井に至るまで絵が描かれている。
その夜は、庄川沿いにある川金という宿に泊まった。露天風呂では、能登の先端、珠洲(すず)から来たという人が話しかけてきた。昭和四年生まれで兵役志願していたが、終戦を迎え戦争に行かなくて済んだと語った。見知らぬ人と気軽にこのような話ができるのもこの土地ならではのことだ。
 
川金
女湯と夕霧分かち露天の湯   甲武信
 
10月10日(木)
砺波平野を後にして、高速道路「のと里山海道」を走った。台風も通過した後で、日本海は白波が立つ程度で穏やかであった。途中「千里浜(ちりはま)なぎさドライブウェイ」を走った。砂が粘土質のためか、タイヤがめり込むことはなく走り抜けていった。
 
11時前に輪島に着き朝市を見て回る。車道とは区分された歩道上に屋台の店が組み立てられている。屋台では魚の干物のほかに塩が売られていた。塩は瀬戸内海の産物と思っていたが、日本海でも作られるのだ。昼食には、ブリ大根のほかに地元の名物「いしる料理」が出された。帆立貝の殻にエビ、ネギ、なすが入っていた。やや塩味が効きすぎていた。
午後「キリコ会館」を見学した。キリコとは、切子灯篭のことで、奥能登の各地で行われる夏祭りに使われる巨大な灯篭である。大きなものは高さ15メートル、重さ25トンもあり、担ぎ手は150人必要だということだ。少子高齢化で、金沢大学の学生が担ぎ手の役を果たしているということだ。
海岸線沿いに千枚田に向かう。ここでも塩を売っていた。道路わきの高台から、千枚田を見下ろした。刈り取った後の田と畦道の境目がハッキリせず、風景は今一つである。狭くて急な土地に沢山の田を切り開いたことに感心する。奥能登地方は貧しさから狭い土地を有効活用する必要に迫られたと思いがちだが、実はそうでないらしい。
 
千枚田からさらに10キロほど北東に進むと上時国家と下時国家がある。パンフレットには、江戸時代の大庄屋と紹介されている。歴史学者網野善彦氏の「日本の歴史を読み直す」(ちくま学芸文庫)によると、両家は回船交易で財を成した家柄だ。この地でとれる塩と炭を船で松前まで運び昆布を買い、敦賀、琵琶湖を経て京、大阪に売っていたそうだ。当時この地方はかなり栄えていたという。
 
千枚田
田仕舞の人影もなし千枚田   富子
 
最後の訪問先は禅宗の総持寺である。説明した人によると、福井の永平寺を本社で、総持寺は営業本部という関係にあり、その下の寺が競い合って信者を増やしたので、曹洞宗の信者が多いという。能登地方の地震で山門が沈み、両脇の屋根にかぶさっていたが崩れてはいない。寺院建築の技に感心した。
金沢のホテルにチェックインしたあと、夕食の場所は寿し龍という寿司屋である。偶然にも東大通り(ひがしおおとおり)にある。ここで出された白子は珍味であった。
 
翌日、49年前に立ち寄った兼六園を再び訪ね、昆布と同じルートで帰阪した。今まで、雪深い北陸にある加賀藩がなぜ百万石といわれるほど財政が豊かだったのかについて、よくわからなかった。砺波平野の米、五箇山の煙硝、城端の絹、奥能登の塩、炭、松前の昆布などがあったからに違いない。百万石の背景にも触れることができ、有意義な旅であった。