辻惠衆議院議員時事講演会レポート

『東大闘争40年~志の持続と内省と、道義ある政治家たらん~』

 

S47農  白井 俊和(代表幹事)

下記の要領にて掲題講演会が、そして引き続いて懇親会が催されました。
 

 
日時 : 平成23年1月12日(水)18:30~20:00(懇親会 20:10~21:40)
講演場所 : 大阪駅前第2ビル5階第5研修室
参加者: 当会会員、会員の家族・知人、辻惠後援会幹部 計20名
 
≪講演~要約~≫
生命エネルギー溢れ能力ある若者がいつの世にもそうであったように、辻惠は所与の時代に生きる者としての制限はあるものの(つまり団塊の世代の一員として)大いなる希求の対象と正義感を心中深く抱きながら、精一杯多感な青春、つまり次のステージに備えてのモラトリアムの時期を、学生運動を核として過ごしてきました。
東大闘争(1968年)以来の大学の直面する諸問題に臆することなくチャレンジしたこと、そして成功・満足と失敗・挫折の遍歴を、思想・哲学を大上段に構えて披露することなく、イッヒロマン的(私小説的)に語り、それにより世代的に近い層のみならず、参加者全員に感銘を与えました。彼の律儀、真面目で真摯な話しぶりに対し、頷き返して相互交流を図った懐深い女性の方々のことは、彼に強い印象として残ったようでした。
 
そして、懊悩の末に、迷いながら消去法の結果、司法試験合格を目指すことに決め、弁護士となりました。しかし、更に、彼は既存の所与の条件の下で、つまり現国家権力の下に活動することに疑念・煩悶を深く抱くようになり、政治家を志向し様々なプロセスを経て国会議員となりました。
 
講演を締め括るに当り、“今正に政局は揺れ動き、且つ状況は錯綜しており、あるべき姿に向かって安易に一本の道を見出せる事はあり得ず、五里霧中・暗中模索を余儀なくされるが、身命を賭して国政に従事していく”と、参加者全員に約束しました。
 
 
≪講演~詳細~≫(順不同)
・留年・学士入学で12年間大学に極めて安い授業料で在籍(モラトリアム期間)
・弁護士になって30年目(1981年弁護士登録)
・(弁護士生活だけでは満足出来なくなった)53~54歳の時が分岐点、その後政治家となって(2003年比例区で衆議院議員に当選、55歳)9年目だが浪人期間は4年間
・2009年8月衆議院議員に当選、民主党副幹事長に就任(現在は国対副委員長・法務委員会筆頭理事)
・戸惑い悩みながら飛び込みチャレンジしていった学生運動の経験が今の自分を作る基礎になった。
 世の中に出て、その奥深さときれいごとでは済まないということを知ったが、学生時代の活動が生きる支えになっている。
・大阪府立大手前高校同期生の羽田闘争での死去を契機として学生運動に参加(自分が何者か、何をしたいのか、何になりたいのか分からない状況で)。
・大学生になって母から言われたことは、“山登り、煙草には没入しないで!”ということだったが、この禁忌を全て破ってしまった。
・三鷹寮時代には、他の寮生と一緒にストームと称して近くの女子大寮に攻めかけた(1969年以降はかようなバンカラな風習が消えた)
・1969年1月安田講堂立て籠もりの前に逮捕された。
・1969年1月18・19日安田講堂封鎖解除が機動隊に依り実行された以降民青との闘争に負け、駆逐された。
・学生運動を投げ出す勇気も無く、心の整理・総括もきちんと出来ぬまま、企業戦士や官僚にも成りきれない自分を発見し、司法試験合格・弁護士資格に忸怩たる思いで辿り着いた。
・いそ弁となったが、雇い主と方向性が合わず、間もなくクビとなったが、薬害訴訟に取り組む弁護士事務所に拾われた。
・弁護士・検事・裁判官の純粋培養を狙う司法改革には反対。
・1990年後半に、民事も刑事も2年で結審させよ、という”2年化法案”は有害であり、反対した。
・55歳になって今後の人生の舞台をどこにするか、”政治家は恥ずかしいが走りながら考えよう”と2003年9月30日に民主党の公認を受け11月9日の選挙で衆議院議員に当選し(1年9ヶ月間在任)、その後大阪市長選に出たが次点で落選、現在は2期目の衆議院議員の途中。
・民主党の官僚上がりの議員は官僚に搦めとられており、官僚を一度は押さえつける必要あり。自民党内には党人派と官僚派があるが、民主党も党人派勢力を強化することが肝要。
・法務省より検察庁の力が強い。というのは、事務次官の上に10人の認証官(検事総長・次長検事・各高検検事長)がいるからである。
 
 
《感想など》
参加者は20名と多くはありませんでしたが、“聞き手が少ない程、話し手からの情報の質が高まる”という通り、講演会・懇親会の場でオフレコの話が多く出、現役で活躍する代議士に接する機会が少ない多くの参加者にとっては貴重な機会となったと考えます。先にも触れましたが、殊に御婦人方の傾聴振りは真剣そのもので、彼女たちの頷きによる反応は議員に感銘を与えたようでした。
 
医療NGOであるペシャワール会現地代表の医師で、アフガニスタンで井戸掘りや灌漑事業に従事している中村哲氏が述べていたように、志ある人は、多かれ少なかれ自らの成功を願う野心のみでは大成出来ず、人の為世の為にこそ奮起のエネルギーもいや増し、大事を成すことが出来るのだと思います。辻恵という人間も“内省を深めながら志の持続を図り、道義ある政治家たらん”として大義・大望の実現に向かっているのでしょう。
 
辻惠と中学の同期でもある小生は、大学紛争中の駒場のキャンパスで偶然に出会いました。中学卒業以来初めてでした。
彼は数人の同級生を回りに従えるかのように歩いていました。多分同級生の中で闘争理論のリーダーであったのでしょう。彼は小柄ですが、背後にオーラのようなものを感じたものです。
 
大学紛争当時の活動する学生・研究者・教員たちの想いと行動とその結末について活動家が記したものが或る本の中に見つかりました。
少し長いですが、ペダンティックでもなく難解でもない文体ゆえ、当時の雰囲気・においが手に取るように感じられますので、一部を引用してみます。
 

 
 実存の1個の人として、“人間とはそもそも何か?そもそも何に基づいて生きかつ学ぶか?”という”ひとつの共通の問題”をよそにして、学徒・学究たることは事実上不可能。今までこの“一つのねもと”に関る問に本当に答えることはおろか、突き詰めてそれを問うことさえなしに、“私の”学問、“私の”研究、“私の”知識の所有をただ馬車馬のように追い求めてきた。その必然の結果が大学の学問の蛸壺化と畸形的繁殖、講座や学部や大学の間、大学と社会の間の厚い壁と闇取引、言い換えれば“競争と対立”、自己内外の“分裂と抑圧”の極である現状となっているのだ。そして今現在の“大学闘争””につながっているのだが、真にその名に値する“総合大学”の場となるはずの“解放区”はほとんどこれを満たすべき何物も産み出し得ぬまま、次第に倦怠と荒廃の色を濃くしていき、他方、諸セクト間の“内ゲバ”は以前に倍して激しくなり、ついに“闘い”は“敗北”に終わった。機動隊によってバリケードが撤去されたあとには、憤怒と絶望と、遣り場の無い寂しさの他、何物も、学徒・学究に残らなかったように見える。
 
しかし、彼らには、実は何も残らなかったのではなく、残ったものがあったのだ。
 
1.”大学教授”や”専門の学問”や”正規の授業”や”卒業の資格”を闘争の始まる前のようには評価することは出来なくなった。
 
2.学生たちがニヒルな気分に陥ったとしても、必ずしもネガティヴになることはない。全精力を傾けたその闘いの挫折を通して、過ぐる日の彼らの昂揚の中に、彼ら自身それと気付かなかった幻想の含まれていたことに気付いたのだ。即ち、現実の制度、権力関係の改革へはゆめゆめ短絡することを許されぬ距離のあること、これを達成するには、認識において、そして数と力において、それだけの着実な用意がなくてはならないことに気付いたのだ。

以上


 

 


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