大阪京大クラブ3月例会参加レポート
S47農 代表幹事 白井俊和
3月10日(木)17:30~19:30、掲題例会が催されました。
参加者は京大クラブ会員65名(因みに会員総数は280名)と関西東大会から小池会長・沖野事務局長そして小生の3名、計68名でした。
小池会長は1部の食事会の前に発言の機会を頂かれ、赤門学友会と関西東大会の概要と現状について、殊に関西東大会が地域同窓会の魁として東京三鷹研修寮建設のための寄金活動を始めている(会員増強も兼ねている)旨の話をされ、大阪京大クラブの方々に対し、お知恵の拝借・アドヴァイスをお願いされました。
更に乾杯の音頭をとる栄に浴された会長は、昔日、栄耀栄華・大繁栄を極めた大阪ひいては関西の復活を願っていることを、“大(だい)大阪・大(だい)関西”の実現を参加者にアピールされました。
2部の講演会は京大大学院文学研究科の杉本淑彦教授(1955年生)によるもので、テーマは“ナポレオンはどのように描かれたのか?~ヒーローの創り方~”でした。
冒頭、大阪京大クラブの鈴木会長によるナポレオン法典についての詳細な“レクチャー”があり、法学部卒の学者としての該博深遠な知識の披露がなされました。
【講演要旨】(3ユニットで構成)
Ⅰ.生まれてから死まで
・ナポレオン・ボナパルトは1769.8.15イタリア領コルシカ島で地主の次男として誕生、父がフランスに協力したことにより、フランスの貴族に叙せられた。
・1779~1784:出世(軍人、官僚、牧師)の道のひとつである軍人を目指し王立兵学校で学ぶ。
・1789:フランス革命 バスティーユ襲撃
・1795.10.5:王党派の反乱を鎮圧(実力将軍として政界で注目度アップ)
・1796.3.9:社交界(政界、実業界、軍部、官僚)の花形ジョゼフィーヌ(前夫はギロチン刑に処せられ、且つ子持ち、他に付き合う男性がいた)と結婚
・1796.3~1799.8:第1次イタリア遠征で勝利、シリア遠征
・1700.11.9ブリュメールのクーデターで政権掌握、第一統領となる
・1804.12.2:皇帝戴冠式、第一帝政のスタート
・1810.4.2:オーストリアのマリア・ルイザと結婚(前にジョゼフィーヌと離婚)
・1811.3.20:皇子“ローマ王 ナポレオン2世”誕生
・1812~1814:ロシア遠征敗退、パリ陥落(1814.3.21退位、エルバ島へ)
・1821.5.5:病死
・1840.12:パリの廃兵院(アンヴァリッド)に移葬
Ⅱ.広報の重要性を認識していたナポレオン
・第一次イタリア遠征時から軍隊内で広報誌を発行
(対象は兵士とパリ在住の政治家)
・政権を握ってからは、広報誌の拡充(『大陸軍広報』)に加えて新たな広報戦略(芸術、特に絵画)を駆使し、英雄(虚像の部分あり)としての自己を喧伝する。責任者はルーブル博物館初代館長のドノン、蔭の立役者は妻のジョゼフィーヌ(いわゆる“上げまん”であった)。
・流刑地のセント・ヘレナ島では、自己弁明の回想録を口述筆記させる(宣伝広報の対象はオーストリア、イギリス、プロイセン、ロシア、息子がフランス王になれるよう環境を整備)
Ⅲ.ナポレオンの芸術戦略
ナポレオンは自らの輝ける時代(15年間)を永遠に後世に残したいという願望のもと、実像ならぬ理想の、あるべき姿を、二人の画家を使って絵画として描かせたのであった。その主なものは下記の通り。
後世にはラジオやテレビを使った虚像作りに長けた政治家が出てきた(ヒトラー、ルーズベルト、ケネディなど)が、ナポレオンこそは社会・国家をリードするための広報宣伝の重要性を知り尽くしていた政治家の魁と言えるのではないだろうか。
・グロ『アルコレ橋のボナパルト将軍』1797年:まるでボナパルトが一番乗り(実際には2番手)のような印象を受ける、妻ジョゼフィーヌが注文し、夫の武勲をパリの政治家に喧伝
・ダヴィド『サンベルナール峠でアルプスを越える第一統領』1800年:
ここでの「我が辞書に不可能の文字は無い」との伝説がある。ナポレオンが描画を3枚注文、ルーブル博物館、サン・クレー城館、等で展示
・グロ『ヤッフォのペスト患者を見舞うボナパルト将軍』1804年:妻ジョゼフィーヌが注文、宮殿に飾り、“ボナパルトはペスト患者を見殺しにした”という批判に対抗
・ダヴィド『ナポレオン皇帝の戴冠式』1808年:ジョゼフィーヌへの嫌悪から欠席した実母レティツィアの像が絵の真ん中に描かれている


