関西東大会6月例会講演会 講演記録

 

昭和40年 教養卒 寺田雄一

 

関西東大会6月例会講演会は、今年のNHK大河ドラマ「江―姫たちの戦国」に関係して「お江と秀忠」と題して、東京大学大学院情報学環・資料編纂所山本博文教授にお願いした。なお、山本先生は、関西東大会日笠幹事の高校時代の同級生とのことで、その関係から大阪での講演をお受けいただいたものである。

山本先生は、25ページに亘るかなり詳細なレジメを用意し、それに沿って約1時間半講演を、その後は約30分質問をお受けいただいた。その概要は以下のとおりである。

 

1.    江の誕生

(1) 戦国時代、美女の誉れ高い、織田信長の妹お市と浅井長政との間の三女として元亀4年(1573年)に誕生。長女は有名な、後の淀殿、次女はお初。

(2) 江の誕生間もなく、信長に離反した浅井長政の小谷城は落城、長政は自害するが、お市と三姉妹は信長に引取られる。

2.    お市の再婚

(1) 天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が倒れると、お市は三人の姉妹を連れて

当時信長の後継者と自称していた柴田勝家と再婚。

(2) しかし、翌年秀吉と信長の跡目を争った勝家の北庄城は落城、お市の方(36歳)は勝家と運命を共にするが、三人の姉妹だけは秀吉に救出される。

3.    お江の結婚、離縁そして再婚

(1) 天正12年(1584年)、お江は12歳で、いとこの尾張大野城主佐治一成と結婚したが、小牧・長久手の戦いで織田信雄(信長の次男)を擁立した徳川家康の味方をしたことに秀吉は激怒し、強引にお江を奪い返す。

(2) 文禄元年(1592年)、お江は秀吉の命により、秀吉の甥の秀勝の元へ嫁ぎ、長女完子(さだこ)、後の関白九条忠栄正室)を出産するも、夫秀勝は出征中の朝鮮で病没している。

4.    秀忠との出会いと結婚

(1) お江の三度目の夫となる徳川秀忠(後の2代将軍)は、天正7年(1579年)に家康の三男として誕生。長男信康は秀吉に自害させられ、次男秀康は家康に疎んじられて、三男の秀忠が実質的な嫡子扱いとなる。

(2) 秀忠は12歳で、織田信雄(信長の次男)の娘小姫(おひめ)と縁組するが翌年小姫は病没する。

(3) 文禄4年(1595年)4月、秀吉の甥秀保没、その兄秀次は謀反の疑いを掛けられて自害、秀吉の病気もあり、この頃から豊臣家に落日の気配が見え始める。

(4) 同年9月、お江(23歳)は、徳川家との関係強化を求めていた秀吉の命により、6歳年下の徳川秀忠(17歳)と結婚し、間もなく長女千姫誕生。嫡子秀頼と千姫との縁組を取決めた秀吉は、翌年豊臣家の将来に懸念を残して病死した。

(5) お江は秀忠との間に、次女子々姫(加賀藩前田利常と縁組)、三女勝姫(越前藩松平忠直と縁組)、四女初姫(次姉お初の養女となり、京極氏に嫁す)、五女和子(まさこ、後水尾天皇の中宮、明正天皇の母)を次々に出産。

5.    家光の誕生と結婚

(1) 慶長9年、待望の長男家光(幼名竹千代は家康と同じ)誕生。

(2) 11年5月には次男忠長(幼名国松)誕生。この頃、お江は病気勝ちの家光よりも次男の国松を寵愛していたらしい。同16年、お福(後の春日の局)が家康に直訴して、家光の継嗣が決定した。この時のエピソードとして、江戸城で、竹千代と国松が家康に拝謁した時、家康は竹千代には菓子を与えたが、国松には与えなかったので、これにより、家康の意向が長男の竹千代にあることが、家中に認識されたとのことである。

(3) 元和9年、お江の意向で、関白鷹司信房の娘孝子を家光の正室として江戸城に迎える。お江と、2番目の夫木下秀勝との間に生まれた完子(さだこ)が九条関白家に嫁いでおり、家光の正室としてしかるべき公家の姫を推薦させた由。

(4) 寛永3年(1626年)9月、お江死去、享年54歳。盛大な葬儀が行われたが、なぜか家光も忠重も参列していない。

(5) 家康の死後、国松(忠長)は、甲斐、更に駿河、遠江を与えられて55万石の大大名となっていた。しかし、寛永7年頃から、家光と忠長の関係が険悪となり、忠長の乱心(意見をした家臣を斬るなど)もあって、秀忠は忠長を勘当、更に、秀忠の没後謀反の動きありとして、家光に自害させられた。

(6) お江の死後お福(春日の局)が大奥で権勢を奮うようになり、お江が推した家光の正室孝子は大奥では力を持たず、不遇に終始して、家光を疎んじていたお江の影響力は急速に低下した。

質疑応答

Q .家光の時代に幕府の基礎ができたと思うが、家来の中で特に貢献したのは誰か?

A 家康は、秀忠に、家康の側近第一の本多正信の子正純をつけたが、他に秀忠は、自らの側近として土井利勝、譜代の酒井忠世、安藤重信らを加えて「年寄」の集団を形成、幕府の最高機関としての「年寄制」が成立した。家康のブレーンであった、「黒衣の宰相」(金地院崇伝)は次第に遠ざけられ、本多正純も後には改易させられた。

秀忠時代に最も影響力を持ったのは土井利勝で、あらゆる機会を捉えて危険視される大名等の改易、とりつぶしを行い、江戸幕府の基盤強化に力を発揮した。

秀忠の死後、三代家光は、年寄制度を再編し、土井利勝に集中していた権限を奪い、土井、酒井忠世、酒井忠勝の3年寄の合議制とした。その結果、土井利勝の権限は弱まり、酒井忠勝が台頭した。家光自身も生まれながらの将軍として、乱心の気味のある弟忠長を自害させ、豊臣氏に近い有力大名(肥後の加藤氏)を改易するなど、諸大名との主従関係を確立し、将軍の力は一段と強化された。

Q  お江の役割、貢献は?

A  10年間で、跡取りの家光を含め子供をキチンと生んだことであろう。秀忠との力関係ではお江の方が上であった。歳も6歳上であったが、秀忠はお江に頭が上がらなかったのでは。

Q 正室であるお江に7人の子供がいたのは、当時としては珍しかったのでは?

A  お江が嫉妬深く、秀忠が決まった側室を持たなかったからであろう。唯一の異母弟であり、名君として名高い保科正之でも、その母の懐妊が分かった時から、お江の指示により保科家に預けられ、家光が会えたのはお江の死後であったという。

30分の質疑応答の後、更に、会長、事務局長他有志で、場所を変えて3時間弱山本先生を囲んで懇親会を持った。講演会から懇親会まで、実に5時間弱、出席者にとっては極めて有益な一時であった。先生にはまた関西に来てほしいとの要望が出された。     

参考資料  山本博文 「徳川将軍と天皇」 中公新社 1999年刊行 立石優 「徳川秀忠と妻お江」 PHP文庫 2011年1月刊