第 32 回総会兼平成 30 年新年会 のご報告
平成30年1月21日(日) 於ホテルグランヴィア大阪 20階 55名様参加
総会・講演会 「名庭(なにわ)の間B」
懇親会 「名庭(なにわ)の間A」
第一部 総 会 議 事 16:00~16:30
議 長 : 関西東大会 会長 北 修爾
第 1 号 議 案 平成 29 年度 事業報告 (河野代表幹事)
平成 29 年度 決算案報告 (安原会計幹事)
平成 29 年度 会計監査報告 (寺田会計監事)
第 2 号 議 案 平成 30 年度 事業計画案 (河野代表幹事)
平成 30 年度 予算案 (安原会計幹事)
(「基金財産の一部を運用財産に組み入れる件」及び
「30 周年記念事業会計を廃止する件」を含む)
第 3 号 議 案 会則変更の件 (河野代表幹事)
関西東大会会則
「第 2 条 本会は事務所を大阪市に置く。」 を
「第 2 条 本会は事務所を関西地区に置く。」 に 変更する。
以上すべての議案は原案通り承認いただきました。
ご報告 平成 30 年度 幹事の異動の件 (河野代表幹事)
第二部 講 演 会 16:30~17:30
講 師 : 廣田 吉崇 氏
演 題 : 「茶の湯文化の歴史」
第三部 懇 親 会 17:40~20:00
開 会 挨 拶 関西東大会 会長 北 修爾
来 賓 挨 拶 東京大学理事・東京大学副学長 松木 則夫 様
乾 杯 関西東大会 副会長 辰野 克彦
来 賓 紹 介 東京大学同窓会連合会 代表幹事 岡崎 一夫 様
東京大学社会連携部卒業生課課長 中丸 典子 様
地域同窓会・団体代表ご紹介
東海銀杏会 渉外担当幹事 吉村 光正 様
大阪京大クラブ 会長 辻 一郎 様
大阪京大クラブ 常任理事 並木 宏徳 様
イベントのご紹介
夏の講演会 (小林良洋幹事)
ゴルフ同好会 (夏住 副会長)
男も料理教室 (渋谷 世話人)
応 援 歌 「ただ一つ」斉唱
閉 会 挨 拶 関西東大会 副会長 夏住 要一郎

北会長 挨拶

松木東大理事・副学長よりご祝辞をいただきました。

講演会(講師 廣田様)

ご来賓、各団体ご代表のご紹介(中央は岡崎連合会代表幹事)
講演会「茶の湯文化の歴史」(要約) 講師 廣田 吉崇(昭和 60 年法学部卒・兵庫県職員)
今日は茶の湯文化についてお話しいたします。といっても「お茶の心」というような精神的な話ではありません。
そういう意図もあって私は「茶道」ではなく、古い言葉である「茶の湯」を使います。お話しする内容は、①抹茶とは何か、②どうして日本に抹茶が残っているのか、③文化ナショナリズムの視点から喫茶文化を見る、の三点についてです。
1.抹茶とは何か
ご承知のとおり、紅茶も緑茶もウーロン茶も同じ茶の木の葉から作られます。ただ、摘みとった茶葉を発酵させるか、させないかのちがいです。緑茶は発酵をさせません。そのために茶葉を加熱して酵素の働きを止めます。加熱の方法には主に二つあります。すなわち、日本茶は主に蒸す方法、中国茶は釜で炒る方法です。
蒸す場合にも二通りあります。蒸した茶葉を平たいまま乾かして、葉脈をとったものを、碾茶(てんちゃ)といいます。これを茶臼で挽くと抹茶になります。一方、蒸した茶葉を揉捻したものが煎茶や玉露です。茶葉をもむことにより、茶葉の組織が破壊されて、エキスが出やすくなります。
歴史的に見てみましょう。そもそも中国の喫茶法の歴史には、三つの段階があります。すなわち、①唐代の団茶法(煎茶法):固形の茶を粉末にして煮出して飲む方法、②宋・元代の抹茶法(点茶法):粉末の茶に湯を注ぎ、攪拌して飲む方法、③明代以降の淹茶法(泡茶法):茶葉を湯に浸して、湯に溶け出したエキスを飲む方法です。大雑把に結論を先にいえば、中国では①→②→③と推移していきますが、日本では③とともに②の方法が残って、茶の湯という独自の文化になったのです。
この三通りの喫茶法はそれぞれ日本に伝わりました。日本での喫茶の歴史について遡ると奈良時代の聖武天皇のころの文献に出てきますが、実態は不明です。平安時代初期の 814 年に嵯峨天皇が藤原冬嗣邸に行幸したとき、漢詩に茶が詠まれました。その文言から明らかに団茶法と考えられます。翌 815 年には近江で永忠が嵯峨天皇に献茶をしました。この少し前の桓武天皇のころ、比叡山延暦寺を開いた最澄が茶の実を持ち帰ったという伝説があり、最澄が植えたと伝える日吉茶園が現在も近江坂本にあります。
奈良時代の話に関連しますが、平城遷都 1300 年記念行事の一環として 2010 年に天平茶会のイベントがありました。イベントとはいえ、このとき奈良の煎茶家中谷美風氏は『茶経』の記述にしたがって、陸羽の茶の忠実な復元を試みられました。私も飲んでみましたが、かなり強烈にカフェインが効いている感じがしました。当時の人ならばカフェインに酔っただろうと思います。
肝心の抹茶法ですが、栄西が中国から持ち帰ったとされています。そして 1214 年に鎌倉将軍源実朝に茶を献じ、『喫茶養生記』を献呈しました。このころの喫茶の歴史を物語るものとして、西大寺の大茶盛があります。大きな茶碗で抹茶を飲むことで有名です。また、栄西が建立した建仁寺では四つ頭の茶礼という行事が現在に伝えられていて、当時の抹茶法を思い起こさせます。
日本における抹茶法による喫茶は、こののち寺院から出て、「闘茶」とし庶民にまで広まり、唐物の美術品の鑑賞と結びついて「会所の茶」となり、さらに珠光、武野紹鷗、千利休が出て「わび茶」へと発展しました。以上で、抹茶とは何かの説明を終わります。
2.どうして日本に抹茶が残っているのか中国では消滅した抹茶法は、とくに抹茶自体に改良があったからこそ、日本では茶の湯を通じて今日まで残ったと考えます。具体的には、①栽培方法の改良、②粉末にする方法の改良(茶臼の改良)、③茶筅の改良が
あげられます。
(1)栽培方法の改良
茶畑の中に黒い覆いをした部分が見られます。覆いのある茶園を覆下園(おおいしたえん、ふっかえん)といいます。黒いものは寒冷紗という日光を遮るもので、これで 90%の遮光をおこないます。より伝統的な方法では、「簀下十日、藁下十日」といい、葭簀を掛けて十日間、さらにその上に藁を敷きつめて遮光度を高め十日間、合計二十日間遮光します。極限状態におかれた茶の木は、日光を求めて葉を薄くします。そして、苦み成分よりもうまみ成分が多くなります。これを手摘みして碾茶に作られます。ちなみに、このような覆下園で育てられた茶葉を蒸して揉捻すれば、玉露になります。
日陰にある茶の木の茶がおいしいことは、中国の『茶経』にも書いてあります。しかし、覆いをすることは、おそらく日本で発展した技術でしょう。16 世紀末に日本に滞在していたポルトガル人ロドリゲスが、『日本教会史』の中にこの情景を記しています。
実は、茶会では二通りの点て方をした抹茶を飲みます。ふつう抹茶といいますと、お茶とお菓子があって、一人ずつサービスされます。これは薄茶です。もう一つの点て方が本当のお茶で、濃茶といいます。 かつて碾茶は茶壺に詰めて保存されました。初夏につくられたお茶は、ひと夏越した方が味はまろやかになっておいしいのです。ちなみに煎茶でもこれは同じです。新茶は香りがよいのですが、味は鋭い感じがします。そして初冬に茶壺の封を切って使い始めます。これを口切りといい、茶の湯の行事になっています。この茶壺の中に紙袋入りの濃茶用の碾茶が入っていて、そのまわりをいわば緩衝材代わりに薄茶用の碾茶で満たします。こ
のように濃茶と薄茶では扱いが大いにちがいます。点てられた濃茶はどろっとした状態の濃厚な茶です。これを複数人で回し飲みします。歴史的には「吸い茶」といい、千利休が始めたとされています。要するにこれほど濃くして飲めるということは、覆下園でつくられた茶の品質がいかに優れているかを示しています。中国の宋代の抹茶法がどのようなものか、もう一つはっきりしな
いのですが、日本の茶の湯の抹茶と同じものではないと思います。このような技術革新があったからこそ抹茶が現在に伝わりました。そして技術革新がおこなわれた生産地宇治の地位を高めました。
(2)粉末にする方法の改良(茶臼の改良)
粒度が荒い抹茶だと、すぐ沈殿する、あまり泡が立たない、口腔内でざらつき感があるなどでおいしくはありません。現在の日本の茶臼は、上臼と下臼の隙間が狭く、茶臼の磨り面の周囲に溝が切っていないなど、極めて精巧に作られており、粒度の細かい抹茶が得られます。これはおそらく碾茶の発展とともに日本で改良されたものと思います。現在でも茶の湯で使う抹茶は、茶臼で挽くのが細かすぎず、荒すぎず、ちょうどよいのです。茶商では電動でたくさんの茶臼を回して碾茶を抹茶にしています。ただし、抹茶アイスクリームとか抹茶ケーキとかに使う加工用抹茶は、粉砕機で粉末にしているものもあります。今ではこうした加工用抹茶の生産が伸びています。
(3)茶筅の改良
中国宋代の抹茶法では、茶の粒度が荒かったと考えます。これを裏付けるように、宋代の喫茶法に関して、攪拌する道具の説明は一、二の書物にしかありません。
現在の日本の茶筅は、内穂と外穂との二重構造の、繊細な作りになっています。この二重構造のもっとも早い事例は、愛知県の岩倉城趾(1559 年落城)から発掘されたものとされています。それよりも遅い一乗谷朝倉氏遺跡(1573年落城)からも出土事例があるものの、二重構造になっていません。するとちょうどこの頃一重構造の茶筅から二重構造の茶筅へと変化したのではないかと推測されます。
まとめてみますと、日本に伝来した抹茶法は、中国文化(喫茶法および道具)へのあこがれから、茶の湯という文化に統合されました。その中で味の追求がさらに進み、栽培方法の改良、茶臼の改良、茶筅の改良などにより、現代にいたる姿に変化したのでしょう。
中国の明代には、さらに進んだ、というか簡便な飲み方である、淹茶法(泡茶法)に移行します。急須に茶葉を入れ、湯を注ぐ方法です。日本でもこの喫茶法が中心になります。江戸時代中期に売茶翁・高遊外が出て煎茶道というものが起こりました。その後さらに発展して流儀化しました。現在でも数多くの流派があり、愛好者はいますが、その規模は抹茶と比べてはるかに小さいといえます。
3.文化ナショナリズムの視点から喫茶文化を見る
(1)『MTMJ―茶道建国論』
私は Kristin SURAK の Making Tea, Making Japan: Cultural Nationalism in Practice(2013)という英文の茶の湯の研究書を翻訳しており、近々出版の予定です。この本の内容は、①ネーションを具体化する社会的作業を「ネーション・ワーク」と名付け、②その概念で茶の湯の歴史、現在のあり方を説明し、③そして外国の事例を挙げて、茶の湯がもっとも成功している事例だと結論づけています。
この本は非常に難しく書いてあるように感じました。ごく簡単にいえば、ネーション=国民を形成する時期に、今までバラバラだった社会集団は自分たちが一体の国民であるという認識をもつ必要があります。そのアイデンティティを感じさせるものが「ネーション・ワーク」であり、日本ではそのひとつが茶の湯である、という議論を展開しているのです。
近世の日本には、国民という概念はなく、身分に分かれ、住む地域に所属していました。ただし、近世の茶の湯についていえば、武士には必須の教養であり、豊かな町人・農民層にも広まっていました。近世は階級社会ですが、茶の湯のような美を通じての「身分を越えた交流」が実現していました。
明治維新により近代国民国家が建設されます。天皇の下で全国民=日本人になり、そして日本人なら、かくあらねばならぬことが求められました。そのモデルに反する日本人は、非国民として差別化されるのです。この過程において、茶の湯は「国民共通の文化」としての地位を獲得します。この本では①近代数寄者という近代ブルジョアジーが茶の湯を好んだこと、②女子への礼儀作法の教育の一環として茶の湯が利用されたこと、③日本らしさの象徴としての近代知識人が茶の湯を評価したこと、の三点を指摘しています。③について、代表的なものは岡倉天心の『茶の本』です。茶の湯が日本の象徴であるという言説を世界に広めました。『茶の本』は元々英文で書かれたので、1929(昭和4)年に岩波文庫に日本語訳が入ってから、日本国内に大きな影響力を持つことになります。
そして、第二次世界大戦後も文化国家としての日本の象徴として、さらに地位を高めました。すなわち、この本は“文化ナショナリズムとしての茶の湯”を主張しているのです。
(2)東アジアの喫茶文化と文化ナショナリズム
私自身茶の湯愛好者として、このような見方はあまり面白くありません。しかし、考えてみますと東アジアでは同様の動きが見え隠れしています。
現在見られる「台湾茶芸」は、1970~80 年代に台湾において編み出されたものです。もっぱら輸出向けの台湾の茶生産は、大陸の茶輸出との競争に敗れ、しかも 1971 年に国際連合を追われ、アメリカ、日本との国交断絶により政治環境が変化して、輸出が激減しました。そこで国内の茶消費を拡大するために「台湾茶芸」が創出されたのです。これは新たな台湾の伝統文化を創出する意義もありました。
一方、喫茶文化の本場であった中国は、茶葉をソ連などへ輸出し、工業製品購入のための貴重な外貨を獲得しました。このため生産を拡大しながら、国内では贅沢品として消費を厳しく統制しました。ところが急激に栽培面積を広げた結果、過剰生産になり、1980 年代はじめには国家の倉庫に茶葉が滞留して消費されない事態にいたりました。
そこで茶葉の流通体制を改革し、国内消費を拡大する政策に転換しました。この際に台湾茶芸をモデルに「工夫茶(コンフーチャ)」などの中国の茶芸が創出され、「茶文化」を再構築する文化的戦略がとられました。 この経緯は、王静『現代中国茶文化考』2017 年に詳しく紹介されています。いずれも茶葉の消費拡大が直接的な契機ですが、それ以上に民族の伝統文化の復興が目的とされています。これらの茶芸は明・清代の喫茶文化がそのまま伝わったものではないのです。
(3)韓国・朝鮮の喫茶文化への疑問
しかしながら、よくわからないのが韓国・朝鮮です。かつて喫茶がおこなわれたことは確かですが、李氏朝鮮が儒教を国教とした際に、仏教色のある喫茶文化は途絶えたと考えられています。そして朝鮮半島は気候が寒冷のため、茶の木が育ちにくいという問題もあります。にもかかわらず、韓国では茶文化とか、茶道とかは盛んにおこなわれています。私も韓国の茶文化団体との交流会に出席したことがありますが、蓮の花やら、クコの実やら、何かの乾燥させた葉っぱやら、いろいろな飲料を“茶文化”と称していました。
たまたま私は台湾で韓国茶道の翻訳書を購入しました。抹茶を使った点前が書いてあり、二重構造の茶筅の図が見られます。抹茶法が中国から周辺国に伝わったことは歴史的事実です。しかし、抹茶法は日本において独自の発展をとげた結果、茶の湯という姿になって日本だけに残っているものです。その成果の上にある抹茶なり、茶筅なりをそのまま使って“復元”と称することは、歴史をいつわるものといわざるを得ません。このような韓国の“抹茶文化”を私自身実際に目にしたこともありますし、ネット上ではいくつも記事があります。二重構造の茶筅を横置きにしたり、立てて置いたりしています。こういうものを見て、韓国にも抹茶が伝わってい
ると考えてはいけないのです。エリック・ホブズボウムは『創られた伝統』という本のなかで「『伝統』とは長い年月を経たものと思われ、そう言われているものであるが、その実往々にしてごく最近成立したり、また時には捏造されたりしたものもある」と述べ
ています。このような理解は、学問の世界では当然のことです。しかし、研究をしているからこそ、疑問に思うことができるのです。茶の湯の研究といいますと、暇人の道楽みたいに思われますし、私自身半ばそう思っていましたが、この本の翻訳を通じて東アジアの文化ナショナリズムの渦の中に巻き込まれていくような気がしております。
以上で、私の話を終わります。ご清聴ありがとうございました。

